嫌われ者のフィロソフィ

 タイトルは、ご存知の方もいるはず。東方地霊殿に出てくる古明地こいしのスペカ名です。
 が、特に東方は関係ない内容です ←


 何かの小説に出てきた台詞で、印象的だったものがありました。


「相手に対して何かをするんだったら、嫌われることを覚悟しなければならない。
 もし相手があなたのことを嫌いだって言ってるのに仲直りしようとしつこく話しかけるとしたら、それはあなたのエゴだ。」


 確かこんな感じだったと思います(うろ覚え)。話の流れや状況すらろくに覚えていないのですが、ここで言う「相手に対してすること」とは「相手を傷つけること」だったと思います。

 例えば友人と喧嘩になった弾みで言ってはいけないことを言ってしまったり、本当に嫌いな相手にそれを言ってしまったり、相手の心身を傷つける行動をしてしまったり。理由は多々あるでしょうが、対人関係において取り返しのつかないことをしてしまった経験は、誰にでもあると思います。当然自分もあります。
 まあ、多分そこで仲直りできれば取り返しはつくんでしょうね。
 そうも言ってられないのは、相手と離れてからそれに気づいた場合や、恋愛絡みのことなどでしょうか。
 謝りたくても今更だし、そもそも連絡が取れないかもしれない。連絡は取れても、相手に許して貰うことができない…………といった状況になると、自分の内に発生した罪悪感と戦わなければならなくなります。
 ここで選べる選択肢は二つ。それでも相手に許しを乞うか、その罪悪感を抱いて生きていくかです。

 自分は超がつくほどの小心者なので、連絡を取ろうと思えば取れる相手なら邪険にされても話しかけたりしてしまうだろうなあと思っていたのですが、先ほどのセリフで、それは間違いなのかと疑問を抱いた訳です。

 生死に関わるようなことではなくても、「取り返しのつかないこと」というのは確かに存在します。その行為を相手に詫びるのは、むしろ当たり前のことでしょう。
 でも、誠意を見せたからって大円団、ということにはならないんですよね。謝ってすめば警察はいらないといいますし。
 そういった場合は、その罪悪感と向き合って、悩んだり、学んだり、とにかく次に活かすことが大事なのかなあと。
 謝り続けることで自分が楽になったような気がする、というのは確かにあります。いつかは許して貰えるかもしれないという希望が見えるから。
 でも、結局はそれって自分可愛さのエゴなんですよね。
 それだったら、過ちは過ちとして認めることが、相手にとっても自分にとってもいいことなんじゃないでしょうか。

 と、いうようなことを、小説を読んで考えていました。
 しかし、本当に謝罪したいのなら相手が許してくれなくとも必死で謝り続けるのも一つの誠意の形ではあるし、うーん。多分正解とかはないんだろうけど、そこのところの按配が難しいです。