人が病気で死ぬ話が嫌い。

 先日、中村航氏の『100回泣くこと』を読んでいて、何でわざわざ小説の中でも人を病気で殺すんだろうと思いました。

 ネタばれ有りであらすじを書くと、主人公と結婚を誓った彼女が若くして癌で死んじゃう、って話。

 話自体はどうということもなかったのですが、他人の感想を読んでいて「感動した」「泣いた」というフレーズがあまりにも多いのに驚いた。

 日本みたいに平和な国で、老衰以外で人が死ぬ要因ってのは2種類に大別されます。事故死か病死。でも事故よりかは病気が多いんじゃないかと思います。
 中でも小説でよく取り上げられているガン・悪性腫瘍では、男女併せて5人に一人が死亡しているという統計が出ているのですが、これって充分に身近なことだと思うんですよね。

 それなのに何で感動したなんて言えるのか、本当に理解できない。
 まあ書き手も読者もフィクションという前提があるから、病気で苦しんで死ぬ人の人生に「泣ける」要素を詰め込むことができるんだと思いますが、実際はフィクションでも何でもない。毎日毎日、ガンで死んでいく人はいるんですよね。じゃあ仮にその人たちの人生を知ったとして、感動したっていう人はいるんですかね。

 そりゃあ、小説なんだから感動的な話を書こうとした結果美談にするのはわかります。でも、何と言うか……「病気・死=泣ける作品になる」という、安易なテンプレート化してる気がするんですよね。
 世界の中心で愛を叫ぶ、恋空、博士の愛した数式、タイヨウの唄、1リットルの涙死ぬまでにしたい10のこと余命1ヶ月の花嫁僕の生きる道、そして100回泣くこと。ジャンルを問わずに挙げればキリはありませんが、全てに共通しているのが病気(しかも治療が困難)という点です。

 これらを個々ではなく全体として捉えた時に、あまりにも病気を美化しすぎている気がして何となく気持ち悪いんですよね。
 余命1ヶ月の花嫁に至っては、ちょっとだけ立ち読みしたんですが本当に辛かった。メールの原文を掲載したり、あえて薬の副作用や痛々しい治療の内容を記して、それで何がしたいんだって思ってしまった。当人の苦しみを知らせたいから? 泣けるから? 生きた証? 少なくとも、自分が病気で死ぬとしても死後になって苦痛や人生を公にされたいとは思わないなあ。

 じゃあ人が他の要因で死ぬのはいいのか、って話になりますけど、そこらへんはやっぱりフィクションとして感じてしまうんですよね。ファンタジックな設定で死ぬのは明らかに「ありえない」訳ですし、美談としての事故死も、やっぱり実感が沸かない。これは、私の知り合いの中に事故死した人がいないからかもしれません。
 が、少なくとも病死した人間は何人もいるので、わざわざフィクションの中まで病気の苦しみとかを見たくないっていうことなのかも。

 長々と語ってしましましたが、人が病気で死ぬ話は現実だけで充分です。これからは読む前に気をつけよう。